鎧を脱ぎ捨てる
あるがままの自分、今の実態としての自分と向き合う勇気。とても大切です。
自分が思い描く虚像ではなく、自分の本当の姿で周囲と接し、周囲とのかかわりの中で自分を磨き続けること。大人になればなるほど、歳を重ねれば重ねるほど、私たちはそんな単純なことを難しく感じるようになる気がします。
背負っている肩書、キャリアの看板がそれを助長するのかもしれません。余計な「鎧」を身に着け、本当に大切で効果的な動きを見せられなくなるという人をしばしば見かけます。私自身、そういうものが現れることもあります。
でも、それは限りある人生の可能性を楽しむうえで、かなり損をしている状態かもしれません。自分がそうなってしまったときにはかなり後悔します。
学校の教科書にも掲載されている(と聞きました。私は記憶にないのですが・・・苦笑。でも、何かの折に文章を読んだ記憶はあります。)中嶋敦の「山月記」では「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」について書かれているとか。
主人公は詩人になりそこなって虎になった男。成績優秀で自信家だった彼は自らが「珠」でないと明らかになることを恐れ、師について学ぶこともせず、周囲と切磋琢磨することもできないままに怠惰なる時間を過ごしてしまった(だから虎になってしまった)と過去を悔いるという話だと聞いた記憶があります。違っていたらごめんなさい・・・。
この「山月記」の正確な記載はさておき、自分の中にある「自尊心」や「羞恥心」が邪魔をして、自分自身の成長のチャンスを無駄にしてしまうことってありますよね。実際、大人向けの研修などの場に赴くと、自分の弱点をさらけ出すことを恐れ、常に心に鎧を着ていて、学びの場を活かしきれない状態の方をよく見かけます。私もそういう風になってしまったことがあったかも。
気持ちはわかるのですけどね・・・。立場変われば私もそうなりますし。
今の自分の立場で「わからない」「できない」「知らない」とは言えない、だからできるだけ鎧を着た状態でその場をしのぐという心理状態。
しかし、そんなことなどなんとも思わず、常に謙虚に場に接し、誰からでも何からでも積極的に「価値あるもの」を見つけて吸収しようとされる方もいらっしゃいます。そういう方は本当に人としての奥行が深いと感じます。
私自身もそういう生き方を目指したいと思います。
40代最後の時期には、周囲から「なぜ、今更?」と言われながらも、大学院の学びの場に身を投じてみました。年齢的にきつく感じることも多く、この歳になって「学生扱い」されることの気持ち悪さと心地よさの両方も感じましたが(苦笑)、変な鎧に守られることなく時間を過ごしたからこそ得たものはやはり大きかったと感じています。
自分の成長を邪魔する、余計な「自尊心」や「羞恥心」に負けたくないですね。できない自分、弱い自分もありのままに受け入れ、そんな自分を少しでも超えていこうとする部分で自分を肯定したいものです。
年度終盤、そんなことを考えつつ、いろいろな壁と向き合う今日この頃です。