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2018-12-23

50歳の節目に(前)衰えも味わい

私事ですが、数日前に50歳の誕生日を迎えました。

人生100年時代が叫ばれる中、50歳はまだまだ折り返し地点かもしれませんね。しかし、自分自身の衰えと上手に付き合っていかなければならない時期に入っていることも痛感します。

肉体的なピークはずいぶん前に過ぎ去りました。筋力や柔軟性も落ちていますし、疲労も抜けにくい。かつて視力2.0を誇った両目も今では老眼が進行し、書類や本を読むのにもエイヤと気合を入れる必要があります。たまに、エクセルに並ぶ数字を見ると正直気持ちが萎えてしまう自分に気づきます(苦笑)。

頭脳面でも、(今との比較で言えば)スポンジのように物事を記憶していた若き日の力はありません。回転速度も落ちているでしょう。若い頃は放っておいても頭がサクサクと動き続けましたが、今はヨイショ!と自分にスイッチを入れて集中力を高めないとかっこ“乗ってくる”感じが出てきません。

つまり、はっきりと言ってしまえば、一面的には「衰えている」ということですね。もちろん、それに抵抗し、いつまでも若さを失わないための努力も貴重で大切なことです。でも、あるがままに今の自分を受け止めることから始めるならば、そのこと自体を否定しても仕方ないでしょう。

では、衰えた自分の価値は下がっているのか?と問われたならば、それは明確にNOだと考えています。

むしろ、若い時には望むべくもない「見識」「思慮の深さ」「洞察力」等の力が(歳を重ねるたびに)増してきています。社会を知り、人間を知り、自分を知っている度合いは、若き頃の自分と今とでは比較対象にさえなりません。あくまで自分の中での比較ではありますが、今の自分が10年前の自分を見たとしたら、「まだまだ修行が足りんな」と思うことでしょう。いえ、そうでなければ「お前はこの10年、何していたんだ?」ということですし・・・。

さらに言えば、衰えて弱くなってきたからこそ見えてくるものが無数に存在します。

例えば、目的地に移動するとき、飛行機、新幹線、在来線、自動車、自転車、徒歩・・・いろいろな手段が考えられます。それらを所要時間やコストといった1つの軸で判断すると、その意味での優劣をつけることができると思います。例えば、徒歩だと1時間かかる先への移動も、自動車だと10分かからないとか。所要時間でいえば自動車が遥かに勝るわけですが、その移動の中で街の空気を感じて何かを見つけるという意味では徒歩が勝るかもしれません。やむを得ない理由で、非効率と思われる手段で移動したときに新しい発見があるということは珍しくないわけです。

同じように、自分の一部の能力が衰え、かつてのような解決方法を選択できなくなったことで、はじめて物事の中に潜んでいた本質が見えてくることがあります。この世の中は老若男女、さまざまなパーソナリティーや事情をもって生きている人の集合体ですから、その本質を深く理解するための自分には多様な視点が必要になるわけです。

その意味において、加齢とともに避けては通れない「衰え」は自分という存在の価値を高めてくれる、味わいのようなものかもしれません。その味わいを受け入れ、自分の中に強みとして取り入れていくことができれば、40代までの自分よりも総合力で成長した自分を確立できるかもしれません。

引き続き精進してまいります♪

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