「器は料理の着物」に想う
昨日「岡山 CLUB RED RESTAURANT」というイベントに参加してきました。文化庁の「戦略的芸術文化創造推進事業」にも位置づけられているイベントです。
会場は日本三大庭園の1つ“後楽園”内にある鶴鳴館 。その空間を若き備前焼作家の作品で演出し、有名な料理コンペティションで入賞した料理人たちと作家たちのコラボで提供されるコース料理を楽しむという、興味深い企画でした。
料理人や備前焼作家の方々の説明を伺いながら、美味しく料理を堪能した2時間。そのなかで、ふと1つの言葉を思い出しました。
“器は料理の着物”
有名な芸術家であり、美食家でもあった北大路魯山人の言葉です。以前、この言葉について料理人の方々が話されている鼎談記事を読んだことを思い出しました。
料理は食べ物だけで完結するものではなく、器とともに食事する人に提供されます。同じ食材、料理であったとしても、どんな器をどんな状態で用い、そこにどんなメッセージを込めて盛り付けていくのかによって、受け取る側(食する側)にとっての価値は大きく変わります。
「料理のメッセージ表現としての器」「食べ物の温度を保ち、持続させるための器」「食べやすさを密かに助けてくれる器」「食後の片づけの時間を短くしてくれる器」・・・いろいろな役割を「器」は果たします。
「器」そのものの主張が強いほうがよい場合もあれば、主張が弱く、存在感を消し去るほうがよい場合もあるでしょう。美味しく、楽しい食事は、料理そのものだけで完成することはなく、「器」とともに形づくられるものだということですね。
それは、人が「着物」を身にまとうことでさまざまな場面で自分を表現したり、気候を含む「環境」と自らを適応させていくプロセスに近いような気がします。魯山人の言葉はとてもシックリときます。
さて、そんなことを考えつつ、私も自らの日常に想いを馳せました。
私たちが軍師として誰かに貢献しようとするとき、軍師自身はどういう立ち位置に自分を置くべきか? もしかすると、自分の役割をここでいう「器」として客観視するとわかりやすいかもしれません。
軍師としての支援の現場においては、支援対象者にお伝えし、ともに向き合うべき問題の本質や視点・知恵そのものが料理。だとすれば、軍師はそれらを届けて支えるための「器」の役割を果たさなければなりません。魯山人の言葉を真似るならば「着物」の役割です。
軍師は物事の本質、大切なことを引き出し、持続させ、支えていくための「器」や「着物」としての自分を最適化しなければなりません。
時には自分が前に出ることで波を起こすことで全体に影響を与えていくことが必要かもしれません。
時には自らの色を抑え、存在感を消しながら裏方に徹することが必要かもしれません。
状況は常に変化します。状況や目的に応じて「器」や「着物」を上手にマネジメントするのと同様、軍師は「軍師たる自分の存在」を効果的な「器」や「着物」のように律することで、主たる本質の価値を最大化させていくという立ち位置を探ることが必要です。
ちなみに、その柔軟性やバリエーションが豊富であり、状況へのすり合わせに長けた軍師はオールマイティ型でカバー領域が広いタイプ。広範囲で長い時間をかけて多様な問題を扱うには、ある程度そうしたオールマイティ型の力が求められます。
もちろん、限られた状況の中に限定されるけれどもそこでは抜群に威力を発揮するという条件特化型の軍師像もあり得ます。
どちらも場合も、自分の特性をちゃんと理解しておくことで、その良さを活かすことができます。一方、その特性を踏まえなかったり、軽視して身勝手なかかわり方をしてしまうと「物事の本質」を壊してしまう危険性が極めて高い。
軍師アカデミーでは、単なるお勉強や知識・技能習得ではなく、自己理解を深めることで自己概念を明確化し、成長させていくプロセスを大切にして研鑽を積んでいます。
それはまさに、「器」や「着物」としての自分を上手に活用できるようになるためのアプローチということですね。
一事は万事に通じます。
日常は学びの素材に溢れていることを実感する、食と文化と芸術の融合イベントでした。ああいう場を創ってくださった方々に感謝します♪