理(ことわり)を知る
仕事柄、いろいろな方と話をする機会に恵まれます。中には、この人は頭がいいな~とか、勘が鋭いな~、物事をよく知っているな~と感じさせてくれ、話をするだけで楽しく、心地よくさせてくれるような方もいらっしゃいます。そんな方との会話のキャッチボールは本当に心地よいもので、自分自身の脳も活性化される快感を感じます。ありがたいことですね。
そういう方たちは何が(他の方と)異なるのでしょうか?
これまでの経験値、生まれ育った環境、日々の生活スタイル、学習歴・・・いろいろな要因によって違いが生じるのだと思いますし、人によってその元となるものは異なるのでしょう。
ただし、1点だけ共通するものがあると感じます。それは、(私自身が前述のように感じてしまう人の場合には)皆さん、“理(ことわり)”というのもを良く知っていらっしゃるということです。
世の中の現象には、幾つかの普遍的な法則のようなものがあり、原理・原則として社会の多くの場面に共通する「筋」のようなものがあります。上からモノを落とすと下に落ちるとか、人には寿命があるとか、1年は365日とか・・・そういう前提条件や前提条件が生み出す法則のようなものです。この原理原則、社会の“理(ことわり)”を見つけ、習得するのは、人類の永遠のテーマであり、武芸等の修練の柱や宗教の教義のようなものにもその要素が多く含まれていたりするものです。
どうやってその“理(ことわり)”に近いものを見つけ、体得してきたのかは人それぞれですが、話していて、この人は頭がいいなぁ、物事をよ~くわかっている人だなぁと感じさせてくれる方は、その部分が長けているのだと感じることが多いです。そういう方は、わずかな情報から多くの仮説を見つけることができます。将来に対してもかなりリアルに予測することができます。だから、話の内容が仮説も含めて豊かになりますし、一瞬で読み取るものの量が格段に多いのだろうと感じます。
情報洪水ともいえるほど、世の中に情報が氾濫し、しかもその大半は質がとても低いという時代です。ナンチャッテ情報、大嘘情報が氾濫し、それに信じた人が何の根拠もなくその情報を真実のごとく広めていく時代です。人が持つ弱さ、好奇心の負の側面を意図的に刺激し、自然に「信じたくなってしまうような大嘘情報」を意図的に流している連中もたくさんいます。皆、心のどこかに社会への不満や反発を持っていたりしますから、「この世界には黒幕がいる!」といった陰謀論に吸い寄せられたりします。世の中、そんなに単純ではないのですが、単純に答えを出して(誰かを悪者にして)スッキリしたいという欲求を人は持ちやすいのかもしれません。
また、何かを知りたくなったら、すぐにグーグル先生に頼って、誰かが書いている答えを見つけようとするクセを持つ人も増えました。以前はそんな手段はありませんでしたから、まずは自分で「どうなんだろうか?」と考えてから調べるのが普通でしたが、今は考えるより前にネット検索です。
しかしながら、そういうクセは人の思考を阻害する場合があります。そして、そのクセに支配されているようでは、自分が社会を読み解くための“理(ことわり)”を確立することはできないのではないか・・・と感じます。
不透明な世の中で求められるのは豊富な情報量ではなく、情報として誰かが提示していなくても、自らの培ってきた“理(ことわり)”によって社会を洞察し、解釈し、予測しながら歩むことではないかと感じる今日この頃です。
それはビジネスの現場でも感じることです。
↑写真は「直島」の一角。情報量を減らし、まどろむ空間の中での中で熟考したいものです。