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2018-12-08

脱スケープゴーティング

私たちは曖昧で不確かな状況に長時間置かれると、強いフラストレーションを感じるようになります。そうなると、一刻も早くその状態をつくりだした犯人、いわば悪者を定め、その悪者を罰することによって安心感を獲得し、安らかで穏やかな心の状態を取り戻そうとします。そして、非合理的な悪者設定と攻撃に走ります。

社会心理学で「スケープゴーティング」と言われる現象です。何らかの状況下で自然発生することもあれば、意図的に仕掛けられる場合もありますが、日常の中でよく目にする現象ではないでしょうか?

 

例えば、数日前に有名力士の付け人への暴行問題が発覚し、メディアを騒がせました。TVやネットでは、「付け人制度が悪い」「師匠の育て方が悪い」「暴力の世代間連鎖の1つだ」「騒ぎ立ててストレスを与えたマスコミが悪い」「協会の体質が悪い」「本人の性格の問題だ」等々、何が悪者なのかをああだこうだと騒ぎ立てています。

あるいは、何らかの大災害が起きたとき、その責任の所在がどこにあるのか不明確な場合ほど、特定の誰か(個人や団体)を設定し、そこが諸悪の根源であるかのごとく、その存在を攻撃しようとする動きが見られます。多くの場合、それらは確かに責任の一端を担うものかもしれませんが、原因や責任の全てがそこにあるわけではありません。しかし、ターゲットとなった存在に攻撃を集中させることで心の中のザワザワ感が軽減されのか、社会全体の動きがそこに集中していくわけです。

残念ながら、消えてなくなることのない集団(学校など)での「いじめ」も「スケープゴーティング」の一種です。さらにいえば、「いじめ」が最悪の結果を招いてしまったときに集団管理者(学校や校長、教師等)に責任追及・非難を集中させることで事態を収束させようとするのも「スケープゴーティング」の一種と言われています。

 

あまり好きな現象ではありませんが、この社会には付き物のようなものだと考えた方がよいのでしょう。

不安定で曖昧でコントロールできないものに囲まれると、私たちは大きなストレスを感じます。そのストレスを軽減するため、曖昧で不安定な環境の原因を無理やり特定し、そこを攻撃すると、自分がそれらを制圧したかのような錯覚が得られるのでしょうね。実態は何も変わらないことが多いのですが、ストレスは気持ちの問題ですから。

また、人は多くの煩悩を持っています。その煩悩が持つ悪しき側面(と自分が感じているもの)を抑制し、自分から切り離し、それを他者に投影させて解消しようとする無意識が働いているともいわれます。例えば、金銭欲や出世欲に支配されたくないために、それがストレートに出てくる人を見つけたときに、それを徹底的に非難する。超高額な役員報酬で非難されている有名経営者や成功者を責めている場面では、もしかすると、そのことによって自分の中に存在する金銭欲や出世欲を否定・解消しようとしているのかもしれません。

そうした背景で、人は常に「悪者」をつくり、その「敵」を攻撃しようとするのですね。相手が自分に直接抵抗できない場合、さらに、一時期は昇りつめた人・組織だという場合には、それを悪者としてターゲティングして攻撃すると大きなコントロール・制圧感を得られるようです。思い当たるものも少なくないのではないでしょうか?

 

私たち人間の社会で消えてなくなることのない「スケープゴーティング」現象。

それは人が集まり、複雑で予測不能な現象が続く中で発生するストレスに対処するために選択する人の本能的行動が生み出しているものなのでしょう。

しかし、時にはそれがさまざまな被害を発生させることになります。そもそも論理を乱暴に飛び越えた思考停止行動に等しい側面を持つ現象です。私たちは、その現象に飲み込まれて行動してしまうと、本質を見誤った“とんでも行動”を選択してしまうかもしれません。

 

できるならば、その渦に巻き込まれずに本質を見抜くことができる自分を確立したいところです。

例えば、その鍵を握るのは「批判的思考(クリティカル・シンキング)」の訓練でしょうか。

ノーベル賞を受賞された本庶教授も「教科書や論文に書かれていることをそのまま信じない」という旨のことを会見でおっしゃっていましたが、そうした力のことです。

 

批判的思考では、7つの態度が必要と言われます。どこかで勉強したことがあるという人は少なくないと思いますが、ちゃんと体に染みついている人はそんなに多くないかも(苦笑)。

「知的謙遜:知らないということを認識する」

「知的勇気:あえて意見を見直す」

「知的共感:相対する視点を受け入れる」

「知的誠実:他の考えに対しても自分と同じ判断基準を用いる」

「知的忍耐:複雑な状況や挫折感を乗り越える」

「根拠に対する自信:正当な根拠はそれだけの価値があることを認識する」

「知的自主性:独自に考える」

 

本来は学生の間に鍛えぬき、その素地をもって社会に出ていくべき力だと思います。ですが、何歳になっても鍛えることのできる力でもあると思います。特別な才能やセンスが求められているものではなく、普通の人が当たり前に世の中を生き抜くために、その気になれば社会の中で磨くことができる力でしょう。

 

自分自身は、スケープゴーティング現象に飲まれているだけなのか?

それらに惑わされることなく、そこから脱却し、物事の本質と向き合って真因を追究しようとしているのか?

自分の態度は「批判的思考」を土台にできているのか?を自問自答することが大切ではないかと思う今日この頃です。

 

批判的思考、鍛えていきたい領域です。

 

 

 

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